Juniperberryのブログ

アラサーでメンタルを患った私の、治療と気持ちの記録です

止まっていました。

文字通り、いろいろ滞っていました。

このブログでは、入院中、主治医の初めての診察前夜までの記録で止まっていたとおもいます。


入院中は、ノートに記録をつけていましたので、また、余力のある時にこちらに記録公開していきたいと思います。


あらましを述べますと、休養できたとの認識で、5/20に退院しまして、一度は都内の自宅に戻りました。

しかし、入院後期から出たイライラが止まらず、また洗濯機が壊れる、家電周辺機器を買わねばならないなど想定外の事態が起き、常にパニック状態でした。

とにかく、ずっとイライラして叫んでいて(声帯がダメにるくらいの絶叫)、実家からの電話には怒鳴り散らす。

母にもう限界、と言われました。


気が狂ったと思いました。

料理関係の番組をしていたので、料理は好きですし、お菓子は社会人になってから週末学校に通うほどです。

でも料理も作れない。段取りがよくわからないんです。

ネットショップとの調整もできない。店側から勝手にキャンセルされたりする。


自分が自分じゃなくなる感じを初めて体験しました。今ここにいるのは、自分じゃない、とはっきりわかるんです。

誰か知らない人に操られている感じ。で、訳わかんなくなって、泣き叫んでる。


長くこちらを休んだのは、文字の読み書きにまた異常が出たのもあります。文章が打てないし、遂行ができない。


とにかく、現状、今日現在そんな感じです。

身体も意味不明に重く、気分も塞いでとにかくしんどい。横になっていると生きる気力がどんどんなくなり、死にたくなる。病気だから死んではいけない、と励まして、さらに精神的にクタクタになる。この繰り返しです。つらい。つらい。つらい。つらい。つらい。

入院中より退院後は6割くらいのパフォーマンスに落ちると言われましたが、もはや今は1割以下です。

口を開くと、つらいしか言わない。

そんな自分を受け入れられない日々にシフトしました。今すぐ人生リセットしたいし、こんな体にした、会社の上司3人は天罰を受けてほしい。呪うしか生きがいがない。最低の人生。


今は実家で、都内の新しい病院に通っています。

昨日は病院の帰りに、思い切って、駅でヘルプマークをもらいました。

長く電車で立っていると気持ち悪くなってパニックみたいになるからです。

精神疾患者も持っていいとのことで、思い切って駅で言うと、バラマキのように軽くくれました。

このマークがいつまで経っても浸透せず、付けていても助けてもらえない、というのはこういうノリの軽さも一因なのでは、と思いました。

もちろん、立ちっぱなしでした。


昨日の通院が響いて、今日は一日寝込みました。

今の私の体調で都内まで通院するのはなかなかしんどいですが、ヘルプマークも付けて続けたいと思います。


入院中の出来事も、体調に無理ない時を見つけて、徐々に記録したいと思います。

投稿おやすみ

自分の整理のためにも、何日かタイムラグはありますが、1日ごとの入院記録をつけてきました。


でも、昨日はちょっと、長い文章を書いてしまったので疲れました。

最初にメンタルクリニックに行ってから今までのことをちゃんと振り返ったのは初めてで、頭がいっぱいいっぱい。久々の飽和感。

文字を打っていて感情が動いたところもあり、後半は泣いていました。

さっさと就寝準備をして、そそくさと布団に入りましたが、やっぱり良くない夢で、うまく眠れませんでした。


だから、今日はなるべくぼーっとして過ごしました。治療もだけど、私は休むために入院してるんだから。原点回帰。


主治医の診察の話など、記録したいことは溜まっていますので、続きはまた後日。


入院6日目 今までの治療を振り返る

目覚めると、初夏らしく瑞々しい青空が目に入ってきました。嵐はもうどこかに去っていました。

正直、この日は朝からすごく気合が入っています。
連休が明け、初めての主治医の診察があるのです。

朝食後、すばやく歯磨きや洗顔を済ませて机に向かうと、苦しいこと、辛いこと、不安なこと、いろんなことをとにかくバーっと、結構な勢いで書き出しました。
最初が勝負とばかりに、この入院での治療に期待することを、余すことなく伝えるための準備をしたかったのです。

というのは、最初に具合が悪くなってからの4年間、あまり治療に手応えを感じてこなかったからです。

以下、少し長くなりますが、私の治療歴を振り返ります。

*****

今までメンタルクリニックが2ヶ所、精神科1ヶ所に通ったことがあります。
私の行ったところはどこも、診察という名のもと、医師と会話をするだけ。それで医師が診断や処方を決めます。検査らしいものは特になく、やっても血液検査くらい。
インフルエンザのように、検査キットを突っ込まれ、少し待ったらインフルエンザか否かがわかる、というような病気とは性質が異なるので、話すほかないのかな?と思っていました。
その後、性格診断や脳波測定、CTなどをやるところもあると最近知りましたが、私はこの4年、その手の検査を受けたことがありません。

最初のメンタルクリニックでは、明確な診断名がつかず、『抑うつ状態』という診断書が出て、会社を休みました。
お薬手帳を遡ると、ありとあらゆる薬、トータルで20種類ほどの薬を試していたことが分かりました。
欠勤期間は3ヶ月程度、多少の波はあれども、徐々に一人で生活して仕事をできるようになりました。時々落ちるけど、なんとか自分でやっていける、というような状態が、その後3年ほど続きました。

主治医は、さっぱりとしたアラフォーくらいの女性で、私としては話しやすく、話すと心が軽くなるので、とても信頼していました。カウンセラーはおらず、彼女が直接10分〜30分、淡々と私の話を聞いてくれます。
途中、彼女がクリニックを去ると言ったときには、迷わず転職先にくっついていくと答えて、家から50分くらいかかる精神科に移りました。

そして、治療を始めて3年経ったときに、ふと気づきます。
鬱病は、数ヶ月から、長くても1年ほどで治るらしいけど、私は3年経つのに、今もまだ6種類の薬と、2種類の頓服が処方されている。休んでしまうほど悪くもないけど、めちゃくちゃ調子が良いわけでもない。
彼女に薬の見直しや診断の見立てについて、改めて聞いたことがありましたが、腑に落ちる答えは返ってきませんでした。

いつまでも完治しないのを気にしていた母に勧められ、別のクリニックに行き、セカンドオピニオンを経て、流れでそこに正式に転院しました。(セカンドオピニオンは10割負担なので、1万円ほどかかりました。)
このクリニックは鬱、社会不安、パニック、発達障害、ほかにも様々な疾患を診ていて、子供から老人までが通っていました。

この転院に関しては、前の主治医を裏切るような気がしてしまい、セカンドオピニオンを受けることすらも言えませんでした。
病院の事務の人に電話して、最近仕事も忙しいし、遠くて通うのがしんどいから近所で診てもらう、と適当に理由を作って、前のクリニックはおしまいになりました。
ちなみに、精神科系の投薬は一つの医療機関でしか受けてはいけない、という法的な決まりがあることを、このとき初めて知りました。だから掛け持ちはNGなのです。

新しいクリニックでは、医学辞典を人の置き物にしたような、でっぷりとした重鎮の男性医師が診ることになりました。
重鎮医師は、『典型的な双極性障害のⅡ型ですね。鬱状態が長く、少しだけ軽躁のあるタイプの躁鬱病です。』と、あっさり言いました。
セカンドオピニオンの際に、精神保健福祉士から30分ほどのカウンセリングを受けましたが、重鎮医師との診察は2〜3分。個人的には、自分のモヤモヤしてきたことを伝えられた感じは全くしませんでしたが、サクッと診断名がつきました。
折しもこの日は33歳の誕生日。私は、新しい薬をもらい、実家近くで親と天ぷらを食べて、ウキウキと帰りました。
ようやく何の病気かわかった!これで治せる!
単純に、有頂天になっていました。

でも、それは苦しみの始まりでもありました。
仕事柄調べるのが得意な私は、双極性障害、躁鬱について色々調べました。そして、衝撃的な事実を知ります。
鬱病は完治するが、双極性障害寛解しても完治はしない。』
つまり、躁と鬱の波は徐々に小さくなるけど、一生薬は飲んでコントロールしてくださいね、と。それが現代日本の医学界の見解のようでした。

更に追い討ちをかけるように、ネットにはネガティブな情報が溢れていました。
双極性障害の治療は薬の服用を続ける必要があるが、妊娠時に薬を服用できないという問題点がある。』
『彼とこの前結納を交わしたのに、そのあとになって彼が実は躁鬱だとわかった。詐欺だ。私の両親も怒って、結婚は破談だと言っている。これを理由に破談にしたら、私は酷い人でしょうか?』

妊娠の件は情報ソースは確かじゃないので、医師ではない私は、正しい情報をまだ持てていません。
結婚破談の話は、、、きっと事実なのでしょう。書いた女性のリアルな悩みで、女性や親御さんのように、そういう風な思いを持つ人いっぱいいるんだろうなと。

病気がわかったと、あんなにウキウキしていたのに、誕生日が終わる頃には、【躁鬱】【精神疾患者】というレッテルがバシッと貼り付けられたことが悲しくて哀しくて不安で、とにかくひたすら泣きながら眠りました。

後日、思い切って重鎮医師に、『今すぐ予定はないが、いずれ結婚や出産もできたらいいなと思っている』と言ったことがあります。
彼は、あっさり『できますよ。病気のことも別に相手に言う必要ないですから。』と言った。
なんというか、欲しいのはそういう答えじゃなかった。すごく、ガサツな返答に感じて、とても不快になり、この頃から少しずつ、この医者はタヌキじゃないか?と疑うようになりました。

不快な要素は他にもありました。
重鎮医師も、ここでカウンセラーをする彼の妻も、私がテレビの仕事をしていることに興味津々だったのです。心を病んだ私ではなく、ディレクターである私に興味がありました。
重鎮医師は何かといえば、『大丈夫、またすぐに〇〇(担当番組名)やれるようになりますから。』と言うし、妻のカウンセラーには、『出演者のあの人は、裏ではどんな顔なの?』とか、『この前〇〇(TV局名)の取材を受けたけど、あんなに長時間取材したのに少ししか流してもらえなかった』とか、そんなことをよく言われました。
私は仕事をし過ぎて具合が悪くなったから治療してるのに、とすごく嫌な気持ちになりました。でも、嫌だ!と言うにはパワーがいります。残念ながら、治療中の私にはパワーがありませんでした。察して欲しかった、精神科系の医療者なら。

ちなみに、妻の世間話は60分間の有料カウンセリングの時間中に行われ、私はいつも30分は彼女の話を聞いていました。
正直早く帰りたかった。意味がわからなかった、彼女の身の上話を聞く意味が。高校生の頃から嫌いなカウンセリングというものが、更に大嫌いになりました。

でもなんとなく通い続けました。精神科は3ヶ月くらいは通わないと結果が出ない、とも言われていますし。
何より、また知らない医者に、自分の生い立ち・生業・悩みや苦しんでいることなどをゼロから話すのもしんどいのです。

そんなこんなで、3ヶ月経ったあたりに会社の人事異動がありました。
異動先は、私のリズムに合わない仕事量でした。職場環境もあまりいいとは言えず、ちょっとオーバーワークになってきた、と早めに相談したつもりが、ここは皆こういうペースで働いてるから、と。頑張ってみたけど、11月末に倒れました。
帰り道、気持ちが全て溢れてしまって、とある大きなターミナル駅のホームに座り込んで、わーわーわーわー泣きました。駅員は、酔っ払いを見るような冷酷な目で私を見ていました。世の中はやっぱり冷たいと思いました。

実家に収容され、重鎮医師が処方する薬を飲んで暮らしました。
はっきり言って、どんどん悪くなりました。
自殺願望が出始めたのは、年を挟んだ1月中頃。そこからは思い出すとしんどいので割愛しますが、4月になっても毎日、もう今日で人生お終いになってくれないか、と願う日々でした。
重鎮医師は変わらず、診察室の重厚で立派な机の前に置物のように鎮座し、『大丈夫、薬増やしましたから。必ず治りますから。』とサラッと言う。
そう、いつも彼は気軽に『治る』と言う。

もう限界だ。
毎日毎日、死にたい死にたいと思って、でも行動しちゃいけないんだ、あと少しの辛抱だ、きっともうすぐ良くなるぞって、ヘトヘトでクタクタなのに自分を鼓舞して慰めて必死で生きる者の辛さが、このタヌキにはわかってない。
このままだと、死ぬ前に気が狂って私が私でなくなるかもしれない。そしたら死ななくったって人生おしまいだ。

私はその頃、尊厳死としての安楽死を認める外国の話をよく思い出していました。
ドキュメンタリーで見た、その主人公の死は、私には尊かった。
本当に賛否が分かれる番組だったけれど、私は、私なりの解釈と持ち合わせるだけの感情の引き出しで、彼女を理解したつもりでいて、意味ある決断だったと思っています。
自分自身であること、これはQOLに直結する大事なことだと思います。

話が色々飛びましたね。
他の人から見ると、私って大したことないレベルの患者なんだと思います。いや、そう見えるんだと思います。
でも私は、私の持つ全てで苦しみと闘ってきて、いまだ、なんの明かりも見えない。
明けない夜はない、といいますが、ここで、名実ともに朝日がさしこむことを、切に願います。


入院5日目

5日目の朝。食事のアナウンスより10分早く、自然に目覚めました。


余談ですが、私は普段、目覚ましとケータイのアラーム、合計6つくらいセットしても危ういくらい朝が苦手です。

仕事を休んでからは、病気の影響もあって、さらに朝がダメになりました。

でも、ここに来たら自発的に起床できるようになっていました。

正しい生活リズムと、大きな窓から差し込む朝の光のおかげに他ならないと思います。

入院期間中にリズムを身につけ、その後も継続できたらいいな。まずはこの調子で、朝起きる練習を。


ここ数日、親への体調報告メールに『今日は穏やかで、健やかだった。』と書くようになりました。

健やか、という表現がしっくりくるのです。


不潔な話で恥ずかしいのですが、具合が悪い時は本当に何もできなくて、お風呂に何日も入れないし、歯磨きや洗顔も一切しないってこともザラです。

よくわからないけど、本当に身体が重く、背中に何か憑物でもついたかと思うくらい、全身に力が入らず動けないのです。

お手洗いは行かないといけないので、母に連れて行ってもらっていました。それが4月の下旬ごろの話です。


この日(5/6)ふと気付きました。

毎日3回、食後にちゃんと歯磨きしてる。朝晩きちんと洗顔してる。欠かさずシャワーも入ってる。おまけに、肌の保湿まで。

なんか、普通に暮らせてるじゃん、と。

この日の日記には、『身体が健やかな行いをできるようになったと感じる。』とあります。

私は今まで、【健やか】という言葉を使う場面に出くわしたことがありませんでしたが、なるほど、これが健やかってことか、と。

余計な重力を感じることなく、自分の体と自分の脳みそがきちんとリンクし、正しいリズムでしっかりと生命活動がすすんでいる。そんな感じでしょうか。

ただただボーッとしていた効果が、こんなところに現れたみたいです。


ところで、全く話は変わるのですが、『回遊魚』と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?

私は、マグロより青魚の群れのイメージです。水族館でよく見るキラキラした集団。


入院した日に、結構ギョッとしたことがあります。

患者さんが病棟内をウロウロ歩き回っているのです。それもグゾグゾと、人口的に『密』な感じで、時間帯問わず。

最初私は、徘徊癖がある方が結構いらっしゃるんだ、と納得しました。


でもこの日、ある話し声を耳にします。

『あと何周ですか?』

ん…?これは散歩なのか!


行動範囲は医師の判断で個別に決められていて、院外に出られる人もいます。しかし今は、コロナ対策で全員病棟からの外出が自粛になっているので、みんな廊下を散歩していたというわけです。


結構な人数が一定方向に歩いているので、私はこの散歩を『回遊』と名付けました。

みんなに倣って、早速3周ほど回遊し、7分の運動になりました。おかげで夕食はおいしく食べられました。


体を動かす気持ちよさを脳みそが思い出したのか、寝る前にストレッチも少ししてみました。

幾分か身体が楽になったから、こういうこともやる気になります。


気づけば、窓の外はひどい雷雨。闇夜に走る稲光。

少しばかり怖かったので、明かりをひとつだけつけたまま、布団に入りました。




入院4日目

昨夜は就寝まで泣いていたからか、まぶたが腫れぼったい4日目の朝。


新人ディレクターの頃、カメラマンに説教されながら悔しくて泣き続けていたら、『そんな泣いたらお前、まぶたがハマグリになるぞ!』と笑われたのを今でも思い出します。それ以来、泣き腫らしたときはハマグリが頭に浮かびます。影響を受けた師匠の一人です、仕事の上でも。


さて、この日は朝食後もなんだかだるく、頭にモヤがかかった感じだったので、午前中は寝て過ごしました。

昼食前に看護師さんがやってきて、採血と採尿。そろそろ治療の準備か、とぼんやり思いました。


昨日までは、昼食後のどこかの時間でお風呂に入っていたのですが、看護師さんに、今日からコロナ対策の2週間プチ隔離が解けるまでは、一番最後にシャワールームを使うようにと指示されました。

病棟でも発熱者や肺炎疑いの方がたまにいて、ピリピリしているようです。ラウンジも席の間隔が離され、病室から出る際にはマスク必須となりました。

幸い、コロナ罹患者はまだ出ていません。


午後も何もすることがないので、退院したら育てたいハーブを書き出して、育て方などを調べて少し勉強しました。

入院4日目にして、もう勉強できるようになったのは、私としては凄いことで、うれしい。

何かを自発的に行う、特に調べるなどの意思の必要な行動が、具合が悪いときには一切できないので、昨日はだいぶ落ち込んだけど、トータルでは少しよくなってるのかなと。


夕食、シャワーと順調に進み、本日も就寝時間。

なかなかすぐには寝付けず、少し音楽を聞いてみます。選曲は先日同様、解散してしまった某国民的アイドル。


懐かしい歌を聞いていると自然に、10代の私や、社会人になりたての私が、生き生きと活動する様子が蘇ってきました。

あぁ、こうして楽しく歌を聴いていた頃もあったなぁ。

中学、高校、浪人、大学、社会人。大袈裟だけど、私の人生には彼らの歌がつきもので、その歌に励まされ、癒され、時には気合いをもらいながら、頑張って生きてきました。

でもこの数年、全然聴いていなかったことに改めて気づきました。(解散したときのフジテレビの番組は正座して見て泣いたけど。)

もう興味なくなっちゃったのかと最近は思っていたけど、好きな歌は、やっぱり今も好きでした。


好きな歌はどれも、『前を向こう』『突き進もう』『走り続けるんだ』そんな歌詞ばっかり。

今までの私は、少しでも前に行こうと、とにかく走り続けることに必死だったんだなと、初めて認識しました。

休むことも大事って、33歳で気づけてよかったんだな、きっと。


話はそれますが、私はメンバーの中でNくんがとにかく大好きでした。

見た目も好きだったけど、なにより、どんな場面でも機転がきいて頭がくるくる回り、気遣いも細やか。ポスト・タモリさんとも言われる名司会者、エンターテイナーぶりに憧れ、あんな頭いい大人になりたいと思っていました。14歳で。笑

そんな、テレビ人として憧れ、尊敬するNくんが最近独立し、立ち上げた会社は『のんびりな会』。

いろんな意味があるんだと思いますが、彼ほどの人でも、のんびりやったっていいじゃない、と思うんだなと。会見を見ていて、ちょっと泣きました。救われました、Nくんがのんびりって言うんだから、私ものんびりしようって。


そんなこんなで、遅くなったけど25 時ごろ就寝。


まさかまさかですが、二日連続で今夜も緊急地震速報が鳴ってしまって、この日の夢では、震災復興番組のロケを仕切っていました。ワーカホリックが抜けません。

入院3日目と4日目の間の話

3日目の終わりは、哀しみに満ちて床についたわけですが、その割には案外すんなりと入眠しました。薬のおかげでしょうか。


ところが、そんな私を叩き起こすまさかの事態が発生します。


なんの前触れもなく、スマホが突然けたたましく鳴り響く、、、すごい心がザワザワする音、、、あっ!緊急地震速報だ!!!

病院の真っ暗な個室で緊急地震速報が鳴るって、尋常じゃない恐怖です。本当に。

普段は冷静に対応できる方の私も、ちょっとパニックで何をどうしたらいいかわからず、とりあえずベッドで固まったまま揺れるのを待ってみる。

ゆったりとした揺れ。

あ、、、そんなでもないかも?


さぁ、そこで気づきます。どうやって情報収集しよう?

私はいつも、すぐにテレビをつけるタイプです。だいたい某公共放送。だって災害時だもの。

ただ今回は【入院中はテレビを見ない!】と決めていたので、テレビカードが手元にない。(仕事を忘れる&コロナ鬱防止)

テレビ見られない→ネットニュース探す→そんな早く地震情報あがってこない→あっ!→ラジオ!!!今こそラジオ!!!


なんか一人ですごい発明したみたいな気分でラジオアプリを起動。

ラジオの速報で、そこまで大きな地震ではないこと、津波等の心配がないことを確認できました。

災害時はラジオの役割ってけっこう大きいんだと改めて知りました。スマホがあればラジオでリアルタイムの報道がわかる。ネットは早いけどフェイクニュースもあるので、情報の真偽を精査しなくていいラジオは安心です。

地震や水害の停電時も、ラジオが速報性の高いツールとして見直されていたのを思い出しました。

入院時、何が起きるかわからないなぁと実感するとともに、ラジオアプリをインストールしておくことはおすすめします。


ちょっと話が脱線しましたね。

そのあと、部屋が開いて懐中電灯がグルグルっと部屋を照らしました。

普段は消灯後の見回りはないように思うので、地震で怪我をしたりパニックなどになったりしている患者がいないか確認して回ったようです。看護師さんから声かけされるなどは特になかったです。


かなり衝撃的な音だったので、哀しかったこととか吹っ飛んだのかもしれません。そのあとは、またすぐに寝てしまいました。


ところで、大人になってから夢を見る方はどれくらいいるのでしょうか?

私は、よく夢を見ます。わりと悪夢の確率も高いと思います。

最近はマイスリーを寝る前に飲んでいましたが、ここで処方された入眠剤は、ベルソムラというもの。以前も使ったことがある薬です。

これは、眠気を阻害する物質を阻害することで眠くさせる薬だと、前のクリニックで説明されました。要は、眠気物質を加えて増やすんじゃなく、眠気だけを引き出すって感じでしょうか。よくわからないかな。


で、この薬、一説には【悪夢】という副作用があると言われています。

確かに、初日は血生臭い夢でした。完璧に悪夢です。思い出したくもない。


この日の夢はというと、、、

仕事を休職中の私に、鬱転の一因と思われる苦手な上司から電話が来て、休職中なのに地震対応の仕事をしに行く、、、という、地震の影響をモロに受けた、めちゃくちゃワーカホリックな夢でした。


まだ続きます。この日の夢は二本立て!笑

二本目は、以前作った料理番組の続編をかなり厳しい条件で作ることになり、ロングダイムの打ち合わせをしたのちに、なんかよくわからないけど、私は両手にはちきれんばかりの買い物袋を下げ、餃子の具や水炊きの材料を必死に探し回っていました。閉店間際のデパ地下で、鶏のブツがない、手羽もない、でも買わないといけない、、、というワーカホリック第二弾です。これは、過去の実体験に基づいたフィクションでした。笑


そんなこんなで、プチ悪夢のせいか、朝食のアナウンスで目覚めると、病衣は冷や汗でひんやり冷たくなっていました。

入院3日目

私の病室は一面が大きく窓で、その下にベッドがあります。

その大きな窓は10センチしか開きません。理由は説明されないけど、言わずもがな。


わりと体温高めな私は、いつも最大の10センチ開けてわずかな風を入れています。

郊外で外からの目も気にならないので、カーテンはいつも開けっ放し。

寝ていると青い空が、起き上がると緑ばっかりが目に入る。空や自然を感じるとバタバタしている心も落ち着くので、今の私には結構いい部屋です。


ちなみに、以前鬱になったときに住んでいたのは、某オシャレな住宅街のデザイナーズマンション。日当たりも悪いし、オシャレ照明で部屋も暗い。入居から一年経たずに引っ越し、それ以来、自然光を重視しています。



さて、3日目の朝は、空が明るくなって自然と目覚めました。

昨夜の頭痛もなくなり、夢もそんなに悪夢じゃなく、悪くない始まり。

といってもやることがないので、7時半の朝食までゴロゴロとまどろみました。こういうゆったりさが大事なのかも…。家で5時半に目覚めたら、早起き!得した!と、朝ごはん作り始めますからね。


朝食もしっかり食べ、少しうたた寝

その後、入院して初めて、自発的に起き上がって過ごす気になり、手帳にとりとめもないメモを書きました。

元気になったらフラワーアレンジメントを習いたい、パン作りや紅茶の教室にも行きたい。

この1ヶ月くらいずっと調子が悪くて、あれをしたい、これをしたい、といった近い未来の夢を思い描くことがなかったので、前向きなことを考えている自分に結構びっくり。

そもそも、人生お終いにした方がいいんじゃないか傾向が強かったので、嬉しかったです。

ただ、久々に字を描くと、手の震えは治ってないし、パンの本とか持ってきたけど、活字を読む気力はまだないかなと。

(4月の具合が悪い時に、文字や絵が飛び出したり踊って動き回るように見えて、上手に文字が追えなくなったので、またそうなるのが怖い。)


しかし昼食後、暗転。

知人からのメールがきっかけかな。今朝の夢ともつながるけど、恋愛絡みの過去の思い出から、思考の渦が負のスパイラルに入り、みるみるうちに哀しみで体が満たされました。

朝、気分が良かったのが幻で、今の哀しくて醜くてどうしようもない自分が本当の現実だと、深く実感して渦に落ちていきました。


思い切ってナースステーションに行き、哀しいと伝えると、頓服のリスペリドンをくれました。

ここのは錠剤でした。一時期よく効くからと持ち歩いて、急に気分が落ちた時に使っていたのは液体。錠剤だと効くのにも時間がかかるから心配。


最近はあんまりリスペリドン効かなくなっていたからどうなのかなと思っていたら、少し改善。1時間ちょっとかかったかな。

看護師さんには、具合悪いかなって思った時に、予防的に飲む習慣をつけるのが大事、と言われました。


なにを考えたか、ここで私は、自分を励まそうと音楽を聴きます。

中学生の頃からファンの、解散した方の国民的アイドルの懐かしい歌。

ここ数年iPod自体触っていなかったので、久々の歌に少し気がまぎれる。


夕食後、このまま回復すれば良かったんですが、、、直後から猛烈な喪失感が私を襲い、気が狂いそうになります。


簡潔に描くと、自分にパートナーも子どももいない猛烈に強烈なコンプレックスから、私には何もない、という深い哀しみと孤独感のドツボにハマった感じ。

ここに列記するのは、はばかられる感じに、ノートの方の日記(入院して書き始めた)は、自己否定の激しい文言が連なっています。


とにかくこの日は、哀しい日になりました。

1時間くらい泣いてナースコール。もう一度リスペリドンを飲み、それでも哀しくて泣き続けていたので、看護師さんが40分早く就寝前の薬をくれ、20時には就寝しました。


*****


以下、私のこじれたコンプレックスについて、ちょっとこぼします。


大学を出て仕事を始めてからというもの、本当に仕事が好きで好きで、『仕事と酒さえあれば何もいらない!』と昭和のテレビマンのようなことを言って突っ走ってきました。

楽しかった。心身共にボロボロだったけど、吸収したいことが目の前にたくさんあるし、おもしろいこと、知らないこと、伝えたいことが、こんなにたくさん転がっているんだもの。生きて仕事してるだけで楽しかった。

(まぁこういう思考が、もしかすると軽躁状態だったのかもしれないし、その後、鬱転する要因にもなっていたのかもしれません。)


一方で、私には出産したいという夢もありました。

18歳の時、カトリックのシスターの話を学校で聞き、強いインパクトを受け、必ず子どもを産もうと決めたんです。

大人になってから、多くはないけど、不毛だったかもしれないけど、私なりに大事な恋をしてきました。でも、今現在、私はひとりです。

もちろん、今でも大事にしてくれる、愛する両親や祖父母もいます。

けれども、わがままかもしれないけど、私も友人たちのように、信頼するパートナーと子どもという家族を持つことに憧れます。


精神の病気を持つ私と家庭を持つ人がいるのか、とても不安です。躁鬱とバレて婚約破棄になった、なんて話も聞きます。

出産年齢のリミットも感じる、もうすぐ34歳の私には大きなことで、結構この『結婚出産ムリかも問題』で、哀しみの渦に吸い込まれます。

2016年の4月から治療を始めてるのに、まだまだ寛解せず、なかなか【普通の女性】になれないコンプレックスも大きいと思います。


この辺りの話を、医療機関は受け止めてくれるのでしょうか?

ただ、薬飲めば治ります、ではなく、大小問わず鬱状態を繰り返したことで、こんがらがった思考回路や癖みたいなものを直さないと、【普通】にはなれないのでは、と。

そもそも、自分を肯定し、受け止められないと、婚活なんて土俵には怖くて上がれません。