Juniperberryのブログ

アラサーでメンタルを患った私の、治療と気持ちの記録です

入院6日目 今までの治療を振り返る

目覚めると、初夏らしく瑞々しい青空が目に入ってきました。嵐はもうどこかに去っていました。

正直、この日は朝からすごく気合が入っています。
連休が明け、初めての主治医の診察があるのです。

朝食後、すばやく歯磨きや洗顔を済ませて机に向かうと、苦しいこと、辛いこと、不安なこと、いろんなことをとにかくバーっと、結構な勢いで書き出しました。
最初が勝負とばかりに、この入院での治療に期待することを、余すことなく伝えるための準備をしたかったのです。

というのは、最初に具合が悪くなってからの4年間、あまり治療に手応えを感じてこなかったからです。

以下、少し長くなりますが、私の治療歴を振り返ります。

*****

今までメンタルクリニックが2ヶ所、精神科1ヶ所に通ったことがあります。
私の行ったところはどこも、診察という名のもと、医師と会話をするだけ。それで医師が診断や処方を決めます。検査らしいものは特になく、やっても血液検査くらい。
インフルエンザのように、検査キットを突っ込まれ、少し待ったらインフルエンザか否かがわかる、というような病気とは性質が異なるので、話すほかないのかな?と思っていました。
その後、性格診断や脳波測定、CTなどをやるところもあると最近知りましたが、私はこの4年、その手の検査を受けたことがありません。

最初のメンタルクリニックでは、明確な診断名がつかず、『抑うつ状態』という診断書が出て、会社を休みました。
お薬手帳を遡ると、ありとあらゆる薬、トータルで20種類ほどの薬を試していたことが分かりました。
欠勤期間は3ヶ月程度、多少の波はあれども、徐々に一人で生活して仕事をできるようになりました。時々落ちるけど、なんとか自分でやっていける、というような状態が、その後3年ほど続きました。

主治医は、さっぱりとしたアラフォーくらいの女性で、私としては話しやすく、話すと心が軽くなるので、とても信頼していました。カウンセラーはおらず、彼女が直接10分〜30分、淡々と私の話を聞いてくれます。
途中、彼女がクリニックを去ると言ったときには、迷わず転職先にくっついていくと答えて、家から50分くらいかかる精神科に移りました。

そして、治療を始めて3年経ったときに、ふと気づきます。
鬱病は、数ヶ月から、長くても1年ほどで治るらしいけど、私は3年経つのに、今もまだ6種類の薬と、2種類の頓服が処方されている。休んでしまうほど悪くもないけど、めちゃくちゃ調子が良いわけでもない。
彼女に薬の見直しや診断の見立てについて、改めて聞いたことがありましたが、腑に落ちる答えは返ってきませんでした。

いつまでも完治しないのを気にしていた母に勧められ、別のクリニックに行き、セカンドオピニオンを経て、流れでそこに正式に転院しました。(セカンドオピニオンは10割負担なので、1万円ほどかかりました。)
このクリニックは鬱、社会不安、パニック、発達障害、ほかにも様々な疾患を診ていて、子供から老人までが通っていました。

この転院に関しては、前の主治医を裏切るような気がしてしまい、セカンドオピニオンを受けることすらも言えませんでした。
病院の事務の人に電話して、最近仕事も忙しいし、遠くて通うのがしんどいから近所で診てもらう、と適当に理由を作って、前のクリニックはおしまいになりました。
ちなみに、精神科系の投薬は一つの医療機関でしか受けてはいけない、という法的な決まりがあることを、このとき初めて知りました。だから掛け持ちはNGなのです。

新しいクリニックでは、医学辞典を人の置き物にしたような、でっぷりとした重鎮の男性医師が診ることになりました。
重鎮医師は、『典型的な双極性障害のⅡ型ですね。鬱状態が長く、少しだけ軽躁のあるタイプの躁鬱病です。』と、あっさり言いました。
セカンドオピニオンの際に、精神保健福祉士から30分ほどのカウンセリングを受けましたが、重鎮医師との診察は2〜3分。個人的には、自分のモヤモヤしてきたことを伝えられた感じは全くしませんでしたが、サクッと診断名がつきました。
折しもこの日は33歳の誕生日。私は、新しい薬をもらい、実家近くで親と天ぷらを食べて、ウキウキと帰りました。
ようやく何の病気かわかった!これで治せる!
単純に、有頂天になっていました。

でも、それは苦しみの始まりでもありました。
仕事柄調べるのが得意な私は、双極性障害、躁鬱について色々調べました。そして、衝撃的な事実を知ります。
鬱病は完治するが、双極性障害寛解しても完治はしない。』
つまり、躁と鬱の波は徐々に小さくなるけど、一生薬は飲んでコントロールしてくださいね、と。それが現代日本の医学界の見解のようでした。

更に追い討ちをかけるように、ネットにはネガティブな情報が溢れていました。
双極性障害の治療は薬の服用を続ける必要があるが、妊娠時に薬を服用できないという問題点がある。』
『彼とこの前結納を交わしたのに、そのあとになって彼が実は躁鬱だとわかった。詐欺だ。私の両親も怒って、結婚は破談だと言っている。これを理由に破談にしたら、私は酷い人でしょうか?』

妊娠の件は情報ソースは確かじゃないので、医師ではない私は、正しい情報をまだ持てていません。
結婚破談の話は、、、きっと事実なのでしょう。書いた女性のリアルな悩みで、女性や親御さんのように、そういう風な思いを持つ人いっぱいいるんだろうなと。

病気がわかったと、あんなにウキウキしていたのに、誕生日が終わる頃には、【躁鬱】【精神疾患者】というレッテルがバシッと貼り付けられたことが悲しくて哀しくて不安で、とにかくひたすら泣きながら眠りました。

後日、思い切って重鎮医師に、『今すぐ予定はないが、いずれ結婚や出産もできたらいいなと思っている』と言ったことがあります。
彼は、あっさり『できますよ。病気のことも別に相手に言う必要ないですから。』と言った。
なんというか、欲しいのはそういう答えじゃなかった。すごく、ガサツな返答に感じて、とても不快になり、この頃から少しずつ、この医者はタヌキじゃないか?と疑うようになりました。

不快な要素は他にもありました。
重鎮医師も、ここでカウンセラーをする彼の妻も、私がテレビの仕事をしていることに興味津々だったのです。心を病んだ私ではなく、ディレクターである私に興味がありました。
重鎮医師は何かといえば、『大丈夫、またすぐに〇〇(担当番組名)やれるようになりますから。』と言うし、妻のカウンセラーには、『出演者のあの人は、裏ではどんな顔なの?』とか、『この前〇〇(TV局名)の取材を受けたけど、あんなに長時間取材したのに少ししか流してもらえなかった』とか、そんなことをよく言われました。
私は仕事をし過ぎて具合が悪くなったから治療してるのに、とすごく嫌な気持ちになりました。でも、嫌だ!と言うにはパワーがいります。残念ながら、治療中の私にはパワーがありませんでした。察して欲しかった、精神科系の医療者なら。

ちなみに、妻の世間話は60分間の有料カウンセリングの時間中に行われ、私はいつも30分は彼女の話を聞いていました。
正直早く帰りたかった。意味がわからなかった、彼女の身の上話を聞く意味が。高校生の頃から嫌いなカウンセリングというものが、更に大嫌いになりました。

でもなんとなく通い続けました。精神科は3ヶ月くらいは通わないと結果が出ない、とも言われていますし。
何より、また知らない医者に、自分の生い立ち・生業・悩みや苦しんでいることなどをゼロから話すのもしんどいのです。

そんなこんなで、3ヶ月経ったあたりに会社の人事異動がありました。
異動先は、私のリズムに合わない仕事量でした。職場環境もあまりいいとは言えず、ちょっとオーバーワークになってきた、と早めに相談したつもりが、ここは皆こういうペースで働いてるから、と。頑張ってみたけど、11月末に倒れました。
帰り道、気持ちが全て溢れてしまって、とある大きなターミナル駅のホームに座り込んで、わーわーわーわー泣きました。駅員は、酔っ払いを見るような冷酷な目で私を見ていました。世の中はやっぱり冷たいと思いました。

実家に収容され、重鎮医師が処方する薬を飲んで暮らしました。
はっきり言って、どんどん悪くなりました。
自殺願望が出始めたのは、年を挟んだ1月中頃。そこからは思い出すとしんどいので割愛しますが、4月になっても毎日、もう今日で人生お終いになってくれないか、と願う日々でした。
重鎮医師は変わらず、診察室の重厚で立派な机の前に置物のように鎮座し、『大丈夫、薬増やしましたから。必ず治りますから。』とサラッと言う。
そう、いつも彼は気軽に『治る』と言う。

もう限界だ。
毎日毎日、死にたい死にたいと思って、でも行動しちゃいけないんだ、あと少しの辛抱だ、きっともうすぐ良くなるぞって、ヘトヘトでクタクタなのに自分を鼓舞して慰めて必死で生きる者の辛さが、このタヌキにはわかってない。
このままだと、死ぬ前に気が狂って私が私でなくなるかもしれない。そしたら死ななくったって人生おしまいだ。

私はその頃、尊厳死としての安楽死を認める外国の話をよく思い出していました。
ドキュメンタリーで見た、その主人公の死は、私には尊かった。
本当に賛否が分かれる番組だったけれど、私は、私なりの解釈と持ち合わせるだけの感情の引き出しで、彼女を理解したつもりでいて、意味ある決断だったと思っています。
自分自身であること、これはQOLに直結する大事なことだと思います。

話が色々飛びましたね。
他の人から見ると、私って大したことないレベルの患者なんだと思います。いや、そう見えるんだと思います。
でも私は、私の持つ全てで苦しみと闘ってきて、いまだ、なんの明かりも見えない。
明けない夜はない、といいますが、ここで、名実ともに朝日がさしこむことを、切に願います。